はじめに
「受験」を中心に情報を提供する本ブログですが、私は個人としては「受験」の存在とその在り方を自明のものとしているわけではありません。これは、以前書いた「受験って何のためにあるの」という教え子による素朴な問いかけの影響でもあります。
今回の記事では、学習における「本質的なこと」として、「教育とは何か」といった大風呂敷を広げた問いかけについて考えます。こうした思考は、受験勉強を進めていくうえで、様々な良い影響を与えるものだと考えます。
目的意識
私自身はもともと、塾業界で働くことになるとは露も思わなかったタイプの人間です。教職課程も当然取りませんでした。自分に「教師」「教える仕事」など無理だと思っていたのです。
私は自分自身で学ぶことは好きでしたが、それを誰かに押し付けるようで「教える」ということから距離をとっていたのかもしれません。
それが、生活上の必要性に迫られる中、友人に勧められ、こういう仕事をすることになったわけです。
話が脱線してしまいましたが、受験生として受験期を過ごす人にとっても、受験生の傍らで子どもたちの受験に携わる人にも、持っていてほしい「疑問」があります。
それは、受験そのものを自明視せずに、何のためなのか、ということを考える思考です。
なぜなら、受験期は、中学受験にせよ、高校受験にせよ、打ちのめされてしまう生徒もたくさんいるからです。
「受験がすべてじゃない」というのは、勉強がうまくいかない生徒にかけるための、かりそめの慰めの言葉ではなく、心の底から思っていることです。
私は昔、裁判傍聴で、東大卒業して外国人の在留許可を与えるような組織の中で出世をしていった人が、仕事の忙しさの中で犯罪に手を染めていった、という事件の話を聞きました。
その犯罪に手を染めた人は、「周りの人間に助けを求めることができないようなメンタル」を作り上げてしまっていた、と後悔していました。
どれだけ勉強を頑張ったとしても、大きな傷や後悔を抱える人生になることもあります。
どれだけ大切なことをしていても、われわれ生命体はやはり有限な存在として、宇宙全体の歴史から見れば取るに足らないことをしているということもできますよね。
そういう視点は、誰かを慰めるためのものなどではなく、宇宙規模の事実であると思うのです。
だから、そういう宇宙規模の事実をぽつんとつぶやく人がいてもいいとおもうのです。結局空を見上げても、また目の前の現実に立ち向かわなければならなくなります。でも、ふと空を見上げて「勉強って何だろう」「教育って何だろう」と考えることが、未来の偉大な思考を生み出さないとも限りませんよね。
中学受験も高校受験も、どちらも現代の日本という環境が生み出したもので、真に能動的にかかわっている生徒は多くありません。そのなかで、しかも学年によって個々の学習スピードも無視して進んでいくカリキュラムの中でうまくついていけない生徒たちに寄り添うためには、こういう考えも必要なのではないかと思うのです。
教育とは何か
現状への疑問は、問いかけとして現れます。
たとえば、「教育とは何か」などです。
私は学校の先生ではないので、「公教育」の一翼を担うわけではありませんが、それでも塾屋として生徒とかかわっているから、やはりこういうマクロな視点でものを考える必要もあります。
あるいは、直接何かを教えているのでなくても、受験生とかかわる以上、教育などについては多くの人が真剣に考え、それを改善していくような意味で、「知識型の社会」になるといいんだけどな、という思いがあります。
教育の力
ここで、苫野一徳さんの『教育の力』という本を紹介させてください。
教育哲学者の苫野一徳さんです。
この人によれば、教育とは「自由の相互承認」を社会において実質化するために、子どもたちに(大人にもだと思いますが)「教養・力能」と「自由の相互承認への感度」を磨いてもらう過程のようなものです。
社会の中で生きる以上われわれは、自分の自由を認めてもらうだけでなく、他者の自由も侵害せず、認めながら生きていくのが理想である。こうした感受性を磨くものとして教育がとらえられています。
さらに、「学力」というものも「学ぶ力」として展開され、ポスト産業社会に必要な「自ら学び続ける力」と定義されます。
さらに、「学び続けなければ生き残れない」という現状に押しつぶされないために、「学び続けることに楽しみを感じたり、うまく休む能力」というような言葉もあります。
こうした力を、家庭や階層格差なしに、すべての子どもに実現していく。
これが公教育の役割だと論じています。
本書では、より具体的にわかりやすく体系的に書かれているので、興味を持った人はぜひ手に取って一読してみてください。
最後に
私としては、その中で具体的な案として「学びの個別化」「学びの共同化」「学びのプロジェクト化」という三本柱について、いろいろと考えることもあります。
「個別化」は一人一人の生徒の進歩にぴったりと寄り添うことで、多くの子どもを救う可能性があると思う一方で、一人一人を追い込んでしまうことにもなりかねないと思います。
集団授業、学年ごとにカリキュラムが進むのは、受動的な学びになってしまうというマイナス面があるのは確かなのですが、それでもそうして引きずられるようにでも前へ進むことができるのがよく作用することもあるのではないかとも思うのです。
今後も、よりよい教育の在り方についても、考えていきたいと思います。
考えていることとしては…
1.明治期にヨーロッパ型の学問体系が導入されたときの様子について知りたい
2.子どもとは何か考えたい(フィリップ・アリエスの本を読みたい)
3.今井康雄さんの著作についてまとめたい
4.吉田敦彦さんのブーバー解釈をまとめたい
とか欲望はたくさんあります。
繰り返しますが、目の前の問題にがむしゃらになるだけでなく、ふと空を見上げて視界を変えてみるのもいいことなのではないかと思います。それも、ただ毎回ふと見上げるだけではなく、だんだんそれを体系的に考えてもいい。うむ
本ブログ「かいたく記」では、こういった大きい話題についてもたくさん書きたいと思っています。ご意見のある人は、コメントなどしてもらえると嬉しいです。
それでは。
かいたく記
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