教師・塾講師

あなたは教師ですか?教師ではありませんか?日本には、高等教育まで約100万人の「教員」がいるとのことです。しかし、あなたも誰かにものを「教えている」はずで、それは職業としての教師ではないけれど、それでも広い意味での「教師」だということはできるはずです。

私は、塾講師で、職業としての「教師」ではありません。しかし、毎日毎日数多くの生徒と話をしながら授業をして、生徒を見ています。そんな中で、自分という存在の定義が揺らぐこともあるし、わからなくなることもある。たまにそういうものを整理したくなります。

このブログを読むと、あなたの中にある「教師」としての側面が刺激され、このブログに対して「違う!違う!」といいながら、あるいは「なるほど」「うううむ」「あれはどうなのだろう」などと様々な熱量をもって何かしらの言葉を生み出すようになる…のではないでしょうか。

よい教師とは何か

まずはじめに、「教師」とは「単元を教えるもの」と考えます。

教師とは生徒と学問をつなぐ役割を果たすことができるひと。学問は「ひとつ」なのです。誰が教えるにしても「三角形の内角の和は180度」なのです。

しかしより広い定義をするなら、その知られるべきものである「学問」と生徒を「つなぐ」存在が教師の役割です。

つなぎ方は、どのような仕方かといえば、その対象を「解像度の高く見させる」ような仕方です。

どうしても「解像度」が高くなりにくいのです。例えば、先ほどの「三角形の内角の和」ということをこのように文字で言われても、いまいちわかりにくい。これは、知識の対象の解像度が低いということです。

その解像を高めるためにどうしたらいいのか。

この答えは、対象と、生徒の間の夾雑物を取り除くということです。

つまり、生徒と学問を「透明なしかたでつなぐ」ということです。

透明な仕方でつなぐことができる人は、その人の「恣意」を外してつなぐことができます。

しかし、「恣意」がない教えは、味のしない料理を食べているようにも感じられます。本来は、それがその素材の味なのだけど、勉強をしている子どもたちは、そういう味を求めているわけではないのです。

同じ一つの図形を見るにしても、例えばピラミッドを横から見れば三角形だけど、上から見たら四角形なわけで、対象をどの角度から見るかによって、それぞれの生徒の刺激のされ方が違ってくるのは当たり前です。でも、一つの対象をあらゆる角度から見せることができるような人はいないし、そんなことをしていれば、おそらく文科省が提示する学習の基準には到達させられない(そんなことはないのかもしれないけど)。だから難しい。

つまり、本来「透明なものとなって生徒と学問をつなぐ存在」であるはずの教師は、生徒に聞き耳を立てさせるために、学問をそれぞれ味付けして、うまいものとして見えさせなければならないものになってしまっている。

そういう気がします。

私は普段、そういう味付けをじゃんじゃんする方なので、ここで神妙になることもできないのですが。

学問(勉強)は、つねに手段であるべきなのでしょうか。あるいは目的となるべきなのでしょうか。あるいは、手段でありつつ目的にもなりうるものであるべきなのか。

みなさんはどう思いますか?(よろしければコメントしてください。うまくまとまらなくてもかまいません。私がまとまらないの代表です)

欲求の不在と学問の現在

生徒は対象を「知りたい」という欲がないのです(要検討)。この点については、内山節『子どもたちの時間』p. 22-23がまさに我が意を得たりという表現です。

 この時代(見定めることのできないものと関係を結びながら生きているのが、今日の私たちの状況である)が教育にも反映している。学んでいるものたちから見れば、見定めることのできない目標に向かってカリキュラムが組まれ、子どもたちはそのカリキュラムと関係を結ぶことになる。唯一現実感があるのはいずれかかわらなければならなくなる受験のみで、それだけが学習に現実感を与えてくれる。

 経済の本質は見定められないのに、お金や収入、消費といった現象だけに現実感があるそれと同じように、教育の本質はわからんかったとしても、受験やそのための成績といった現象にだけ現実感が生まれる。今日の時代においては、さまざまな領域において、根本的なことは見定められないのにその結果現れてくる現実に振り回されるのである。

内山節『子どもたちの時間』、内山節著作集11, pp. 22-23

この文章はまさに、カリキュラム先行で、学校というシステムの中に産み落とされる子供たちの苦悩の源を表しているように感じられます。

教師の側に立つ者どもは、みなこの前提を共有すべきなんじゃないかと思います。

われわれもそうして学んだものだった。

われわれも学問そのものに興味を持ったわけではなかった。

でもその中でわれわれに向き合ってくれる大人だったり、自分の周りの友人だったり、強大だったりを通じて、それぞれがそれぞれの仕方で学問に「現実感」を与えることで乗り越えてきたはずです。

だから私はそれぞれの生徒に、学問に対する「現実感」を持ってほしいのです。

それは、今であれば定期テストで点数を取ることだし、志望校をもってそこに向けて努力をすることだし、あるいは自分が考えてもいなかった志望校を立てて、そこに向かって努力をすることでもあります。

それはある意味で作られた目的に過ぎないのだけど、それでもそれにすら現実感を感じられない生徒も本当にたくさんいることを私はよく知っています。

中学生を卒業して高校生になったら、今度は大学教育というものと自分を現実的に結びつけるものを見つけてほしい。

大学生になったら、社会というフィールドと自分を現実的に結びつけるものを見つけてほしい。

それは社会における様々な問題点で、それを自分がどう解消していくのかということを考えられれば。

でも、われわれはそこまで考えているのだろうか。

結局は目の前の現象に対処することに首っ引きになっている。

しかし、その目の前の現象の背後に、いわゆる「イデア」的なものとして、その現象の根源を見ていたい。

それが教師なのかな、と思います。

私は自分を塾講師と定義しています。教師ではない。ただ、教師の方向への志向性はいつももっていたいなと思っています。これから親になるかどうかはわからないけど、そうなったとしてもです。

かいたく記

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