「この受験は子どもの将来のため…」
勉強に向かわないお子さんを前に、こんな風に思うことはありませんか。
確かに、現在の努力なしに未来の成功は手に入りません。(完全に運で成功することもあるにはありますが、再現性はありませんよね)
しかし、努力をすれば成功すると決まっているわけでもない。
努力の仕方にもよるし、たとえどこの誰が見ても努力をしているのだとしても、その人の未来に輝かしいものが待っているかはわからないとも言えます。
あるいは、こういうこともできるかもしれません。
将来どうなるかはわからないけど、今努力していれば、その努力は必ず将来の糧になる。
いや、これも「なる、かもしれない。」ということではないでしょうか。
この偉大な現実社会においては、実は「ああすればこうなる」というノウハウやハウツーはなにも機能しないのかもしれません。
99人に当てはまったとしても、自分が残りの1人だったら…
そういうことです。
でも、それ以外に羅針盤がないときには、やはり将来からのトップダウンで、現在を縛り上げるような物言いを、子どもにしてしまうことってあります。
このブログは、そうした考えに一石を投じるものです。
もちろん、何がどうなるかなんて誰にも分りません。
でも、その分からなさをどこまで明晰に解明しているのか、それはその人が発する言葉に影響をすると考えます。
現実① 未来でも過去でもない、現にあるもの
本日のブログの内容は、田中美知太郎『ロゴスとイデア』、文藝春秋社からの内容を多く含みます。
本日のテーマは、「現実」とはなんであるか、ということです。
さて、現実とは何かと言われたときに、以下の答えが考えられます
①現にあるもの、確実に我々の所有となっているもの
この考えのもとには、「未来」は未だ来たらず、つまり存在していないもの、そして「過去」はすでに過ぎ去りしもの、つまり存在しないものだ、という考えがあります。未来も過去も「ない」ものだから、「現在」のみに目を向ければいいのだ、という考えです。
将来を考えるから不安になるし、過去を顧みるから後悔するのだ、現実だけに没頭していればよい。あるいは、そもそも将来のことを何も考えていないし、過去の失敗もどこ吹く風。
そういう考えです。こういう意味での現実は、「常に変転し、一時もとどまることのないもの」です。だから、快楽に身をゆだねているときは、楽しいけれども、そこにとどまることはできない。現実は常に流れゆくものだからです。
将来も過去も顧みない姿勢、こうした姿勢は「勉強をしないでゲームばかりしている子ども」の姿と重なります。
現実② 来ることが確実にわかっていること、真実
そんな風に遊びまわっている子どもに一言「現実をみなさい!」。こういう考えもわかりますよね。言いたいこともわかります。遊んでいるだけでは、いつか必ずやってくる「現実」にあなたは押しつぶされてしまう、それは必ずくるものなんだ。そういう考えです。
こうした「現実」は、しばしば過去の考察から投影された未来として表現されます。
過去1が起こり、それに続いて現実1が起こっている。これは未来1が来ることを示している。
そういった考えです。ある意味で科学的(?)で実証的、歴史に裏打ちされている、そういう考えです。
大人はかつて子どもでした。そしてその過去を記憶したままで、時を経て、周りにはうまくいった人もいるし、うまくいかなかった人もいる。その目で見ていなくても、たとえば貧困家庭の割合を数字で知っているし、給料が上がらずに商品の値上げだけがされている現実を知っている。
大人は数多くのことを知っている。だから、子どもの将来についても予見することができる。
この子はこれではだめだ。いつか来る「現実」に太刀打ちできない。(あるいは、そこまで言わないにしても、「この勉強では、この成績では、絶対に志望校には受からない」というフレーズは親御さんの口からたびたびききます。そこにはかなりの強度の確信が込められています)
そういう考えです。
私は、どちらの立場が正しいというつもりはありません。
メロス島事件
古代ギリシャにおいて、紀元前416年春、アテナイの軍隊が、当時中立であったメロス島(ミロス島:ミロのヴィーナスが見つかった島です)に対して、自分たちの味方になりなさいと説得をしました。アテナイは、スパルタとの戦争状態を有利に進めるため、味方を少しでも増やしたかったのです。
アテナイ代表は、メロス島の要人にこう言いました。
もし諸君が現にあるところのもの、現に諸君がいているものをもととして、そこから国家の安全を計ろうとするのではなく、いまに起こるかもしれないことの見込みから、それを論じたり何かするために、ここに出てこられたのなら、われわれはもう何も話すことはないのである。
上掲書, p. 16
と言いました。この会談では、「現実的な話をしよう」とアテナイ陣営は呼びかけているのです。
メロス島の防衛部隊は、アテナイの軍隊からすれば赤子の手をひねるほどの弱弱しいものでしかありません。しかし、メロス島の人々は、自分たちはこうして侵略される側のもので、なにも悪いことはしていないのだから、神の加護があり、スパルタに助けられる可能性だってあると考えています。
メロス島の人々の考えは、正直言って甘いものであり、当時メロス島の人々を助ける価値がると考えるひとはいませんでした。
メロス島の人々には「現実」が見えていないのです。
そしてメロス島の人々は、現実にアテナイ軍によって、男性はすべて殺され、女性と子どもは奴隷となりました。アテナイのいう「現実」は、まさに「真実」となったのです。
現実③?
その後のアテナイはどうなったのでしょうか。
まず、メロス島の住民を弑逆したアテナイの海軍戦力は、その後のシチリア遠征で壊滅しました。そしてその後、「より大きな現実」ともいえるアレクサンダー大王率いるマケドニア軍によって攻め滅ぼされてしまいました。
つまり、一言で言えば、大人の現実ともいえる現実②はより大きな現実によって粉々に粉砕されてしまったのです。
さて、われわれが考える「現実」とはどのレベルなのでしょうか。常にあとからやってくるものの侵略におびえなければいけないものなのか。あるいは、現実に正しくあることから逃れ「私には正しく感じられる」という子どもの現実にしがみついて生きるのがよいのでしょうか。
「現実」という言葉は、このような難しさをはらんだものであります。
以前のブログで、東大に入ってけれど犯罪を犯してしまった人の裁判傍聴をした話を書きました。見通しのきく将来などない、というのは、われわれを不安にさせるけれど、それはその通りなのかもしれません。
だから、子どもにはどんな未来にも立ち向かえるように、切り開けるようにがんばってほしいのですよね。でも、この考えを先へ進めていくと、受験の失敗は人生の失敗とは全く関係がない、ということになり、塾屋としては禁句の領域にもなってくるかもしれません。禁句というといいすぎですが、かなり丁寧に話をしていかないと、納得してもらえないし、相手に対しても失礼ですよね。ううむ
さて、本書の続きを知りたい!より詳しい内容が知りたい!と思った方は、前述の『ロゴスとイデア』をぜひお買い求めください。私の話は、第一節の薄い解説に過ぎません。より豊饒なエッセンスは、本を読み、理解することでしか得られないものです。もっと先の話も知りたい人は、コメントなどしていただければ、先も頑張って書こうと思います。
「ああしたらこうなる」。これがわかる人はいないのだと思います。だから、確定した未来がこうなる、ということ(将来のえさ)によって、ではなく、現在の自分のがんばりも含めて、目の前の人に信頼してもらうことによって、その人の運動の源になれれば、いうことはないかもしれませんね。
相手を変えるのではなく、自分が変わる、この話は前回のブログでも出てきたと思います。
本日はここで失礼いたします。
かいたく記
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